Integrity/インテグリティとは主体性発揮の源泉である

この言葉がどうして「誠実さ」や「真摯さ」と訳されることになったのか、とても関心があって調べたことがある。もちろんドラッカーのマネジメント論にでてくる有名な一節でもある。それは次の2つの経験がヒントになった。一つは1993年に日本で立ち上げた米国のフランクリン・クェストの事業展開を通してクライアントであったほとんどの欧米企業の行動規範の中に Integrity と書かれてあったこと。もう一つはアンダーセンコンサルティング(現アクセンチュア)に在籍していた90年台後半、私の専門はヒューマンパフォーマンスであったが、ITの世界ではSystem Integration (システム統合)という言葉が使われていたことである。2つの別々のシステム(無機物)を一つに繋ぐことをIntegration (統合)と呼ぶのは極めて合点がいったが、語源が同じであるIntegrityを一人の人間に対して使うからには人間の中の何かと何かの整合性という意味か?と漠然と考えていた。

そんなある日、普段から付き合いのある外国人のエグゼクティブから相談を受けた。日本人はなぜビジネスの場で「はい」と言っておきながら約束した行動をしないのかと。それはある特定の人ではなく、日本人に対する印象のように思われた。それは誠実さに対して疑問が投げかけられたと言っても良い。彼が知る武士道から浮かび上がる信頼できる日本人像とは全く相入れないことへの当惑であった。この相談に対する回答はここでは割愛するが、この事例では「約束したこと」と「実際の行動」に齟齬があり、誠実さが欠如していると思われた、と言うことである。私も日本人の一人であり、他人事ではない。「言っていること」と「やっていること」が違うと捉えられた場合、誠実な人とは思われない。Integrityが高い人=誠実な人とは、道理に則っているという前提で「言っていること」と「やっていることが」あっている、と捉えることで自分でも日本語訳に合点がいった。

とは言え、生涯において100%言動が一致しているというような人物にはなかなかお目にかかれないのではないか。聖人君子でもない普通の人間にも「誠実」という言葉を使うことを考えると、時には失敗も織り込み済みであると考えられる。しかしドラッカーはIntegrity (訳では真摯さを使っている) のない人物をマネジメントの職につけてはならないと警告するからには、人が成長する過程で誠実さに関する幾つかの葛藤(自分が言ったこととが実行できないような場面)を乗り越え、失敗から学び、克己心を養っているかを基準にして、人物を見抜けということであろう。

上記を踏まえ、ワンアソシエイツを創業した2000年初期にプロとして活躍するすべての社会人を対象としたプログラム*「プロフェッショナルの思考と行動」を創り上げた。2001年から2004年までアクセンチュアに入社したコンサルタントの皆さんをはじめ、主にグローバル企業の皆さんを対象に実施している。

*「プロフェッショナルの言動の一致」ではなく、「プロフェッショナルの思考と行動」としたのはIntegrity (誠実さ) を単にその場、その場の言動の一致と捉えるのではなく、矛盾を含めたあらゆるコンテクスト(文脈)においてプロはどのように思考し、どのように行動するかによって自身の誠実さを示すことにもなれば、ならないことにもなる、またその結果責任を負うものとなることを明示するためである。どんなに優れた戦略的思考ができたところで、誠実さに欠けていては持続的な信頼関係は構築できない。

誠実さとは相手の目に映るものであり、相手が判断するものである。自分が周りに対して誠実であると自負してもあまり意味はないが、自身の弱さを受け止めた上で、何事にも誠実であろうとする姿勢には意味はあると思う。よってIntegrity/インテグリティとは自らの主体性発揮の源泉と捉えている。

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James Hayase

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