文化的背景の影響力

文化が持つ力の影響力を実感することがある。以下はその実例である。

よく使われる言葉に「お客様は神様です」というのがある。これを述べたのは他でもない、三波春夫さんである。三波春夫のオフィシャルサイトによると芸をする心がけとしてお客様の前に立つ時にはあたかも神様の前に立って芸をするということを心しておられたとのことである。

たくさんの方がネット上でこの言葉の誤用について書き込んでいる。この言葉の意味を「お金を払えば何を言っても、やっても良い」という口実に使っているという。
 
果たしてこの態度や姿勢はこの言葉から誤解されて始まったことなのだろうか。以前アンダーセンコンサルティング時代に地方自治体の管理職研修で「外注管理」の講義を受け持ったことがある。その際にはグローバルにおける事例を紹介したが、いずれも対等な契約関係が元になっている成り立つ事例を紹介した。
 
日本語の響きがあまり美しくないが、外注(Outsourcing)と言う言葉から日本ではどうも上下関係を想起してしまうのだろうか。日本語は話し方を聞いていれば上下関係が分かる言語である。これは英語にはない特徴だ。文化的背景としてサプライヤーには無茶な要求をしても受け入れるのが当然と言う暗黙の了解が見え隠れする。三波春夫さんのように純粋に言葉を発する人がいても、文化的要因はその本来の意味を変えてしまうほどの力を持っている。
 
それぞれの組織にも同じように文化がある。良きものは残しながら、時代の流れやグローバル化に適応するために自らを変革し、新しい組織文化を醸成していくには適切な段階を経て、時間がかかったとしても一歩ずつ進まなければならない。

心に刻まれた言葉

6年ほど前に、ある農業シンポジウムで知り合ったインドネシア青年商工会議所の議長の招きで彼が経営するUBUD Sari Health Resortへ行ったことがある。空港から迎えの車で走ること2時間ほど。街から離れてどんどん人里離れた山へ向かっていく。着くとそこは皆が想像するような海辺のリゾートホテルとは全く違い、うっそうと草が茂るビレッジの中にある簡素な宿泊施設だった。宿泊客はドイツ、カナダ、オーストラリアからきた年配者たちだった。彼らはリトリートにくる常連たちで、朝はベジタリアンディッシュを取りながら会話が弾んだ。

施設の真ん中には石碑があり、そこにはUBUD Sari創設者の言葉が刻まれていた。それは「私の夢は」で始まり、「与えることで貧しくなるものはいない」で結ばれていた。読んだ時に何かが心に残った。それ以来、時折この言葉を思い出す。

ランニングとダイアログ

昨年ジョギングやランニングをしている人たちの仲間入りをしてハーフマラソンを完走した。定期的に走るようになると体が走ることを覚え、仕事を仕上げて走ろうという意識が芽生えた。一昨年の12月に15年間我が家で育った犬が世を去ってからは一緒に散歩にいくこともなくなっていたので、良い機会となっている。
一人でも走るが、仲間と走るときはより楽しい。特段タイムを競うわけでもなく、記録を伸ばすためでもない。走りながらただその日に起こった、たわいないことや常々思っていることなどを分かち合う。相手の話を聞いて、なるほどと思うこともあれば、自分の考えていることを話しながら、相手との掛け合いの中で未完成だと思うこともある。身体を鍛えながら、思考や意識を研ぎ澄ませることができる、なんと贅沢な時間であろうか。

Be here and now

今朝、玄関先に錆びた小さなネジが落ちていた。拾い上げ、一体何のネジだろうと思いながら、あたりを見回した。それは門の扉についている部品を留めるネジの一つだった。長年そのまま使っていたので、門を動かすたびに振動でネジが少しずつ緩み、とれてしまったのだ。門はいつものように開閉することが当たり前と思っていたので、日頃の手入れをしていなかった。

余裕のない時には落ちているネジさえも見逃してしまっていたに違いない。今目の前に起きている小さな変化に気を留めること、今に意識を向けることで、自身のやるべきこと、向かうべき方向性へのメッセージを感じ取ることができる。

ミッションでつながる

冬の林道を歩きながら空を見上げた。うっそうと茂る木々には枯葉が何枚か残っているものもあった。その中で枝にかろうじてぶら下がっている一枚の葉っぱを見つけた。風に吹かれて今にも落ちそうであった。帰り道にも見上げたが、まだ枝に残っていたのを見て、とても勇気付けられた。

そこでふとO’Henryの「最後の一葉」に出てくる勇気を得た病気の主人公の話を思い出した。そもそも葉が落ちるかどうかは問題ではないのかもしれないとも思い始めた。本人にとって葉が残っていると思えればそれで良い。しかしそれは自分の力だけではできない時がある。誰かの助けを借りてそう思えるようになる場合もあれば、自分の知らないところで誰かが精神的、物理的を問わずに、支えていてくれたおかげで、思えるようになる場合もあるのではないか。その繋がりに気づくとき、心のうちから感謝の念が湧き上がる。

人間はより大きな目的に根ざしてお互いがつながっていくときに、想像を超えたみなぎる力を発揮できるようになるのかもしれない。

Integrity/インテグリティとは主体性発揮の源泉である

この言葉がどうして「誠実さ」や「真摯さ」と訳されることになったのか、とても関心があって調べたことがある。もちろんドラッカーのマネジメント論にでてくる有名な一節でもある。それは次の2つの経験がヒントになった。一つは1993年に日本で立ち上げた米国のフランクリン・クェストの事業展開を通してクライアントであったほとんどの欧米企業の行動規範の中に Integrity と書かれてあったこと。もう一つはアンダーセンコンサルティング(現アクセンチュア)に在籍していた90年台後半、私の専門はヒューマンパフォーマンスであったが、ITの世界ではSystem Integration (システム統合)という言葉が使われていたことである。2つの別々のシステム(無機物)を一つに繋ぐことをIntegration (統合)と呼ぶのは極めて合点がいったが、語源が同じであるIntegrityを一人の人間に対して使うからには人間の中の何かと何かの整合性という意味か?と漠然と考えていた。

そんなある日、普段から付き合いのある外国人のエグゼクティブから相談を受けた。日本人はなぜビジネスの場で「はい」と言っておきながら約束した行動をしないのかと。それはある特定の人ではなく、日本人に対する印象のように思われた。それは誠実さに対して疑問が投げかけられたと言っても良い。彼が知る武士道から浮かび上がる信頼できる日本人像とは全く相入れないことへの当惑であった。この相談に対する回答はここでは割愛するが、この事例では「約束したこと」と「実際の行動」に齟齬があり、誠実さが欠如していると思われた、と言うことである。私も日本人の一人であり、他人事ではない。「言っていること」と「やっていること」が違うと捉えられた場合、誠実な人とは思われない。Integrityが高い人=誠実な人とは、道理に則っているという前提で「言っていること」と「やっていることが」あっている、と捉えることで自分でも日本語訳に合点がいった。

とは言え、生涯において100%言動が一致しているというような人物にはなかなかお目にかかれないのではないか。聖人君子でもない普通の人間にも「誠実」という言葉を使うことを考えると、時には失敗も織り込み済みであると考えられる。しかしドラッカーはIntegrity (訳では真摯さを使っている) のない人物をマネジメントの職につけてはならないと警告するからには、人が成長する過程で誠実さに関する幾つかの葛藤(自分が言ったこととが実行できないような場面)を乗り越え、失敗から学び、克己心を養っているかを基準にして、人物を見抜けということであろう。

上記を踏まえ、ワンアソシエイツを創業した2000年初期にプロとして活躍するすべての社会人を対象としたプログラム*「プロフェッショナルの思考と行動」を創り上げた。2001年から2004年までアクセンチュアに入社したコンサルタントの皆さんをはじめ、主にグローバル企業の皆さんを対象に実施している。

*「プロフェッショナルの言動の一致」ではなく、「プロフェッショナルの思考と行動」としたのはIntegrity (誠実さ) を単にその場、その場の言動の一致と捉えるのではなく、矛盾を含めたあらゆるコンテクスト(文脈)においてプロはどのように思考し、どのように行動するかによって自身の誠実さを示すことにもなれば、ならないことにもなる、またその結果責任を負うものとなることを明示するためである。どんなに優れた戦略的思考ができたところで、誠実さに欠けていては持続的な信頼関係は構築できない。

誠実さとは相手の目に映るものであり、相手が判断するものである。自分が周りに対して誠実であると自負してもあまり意味はないが、自身の弱さを受け止めた上で、何事にも誠実であろうとする姿勢には意味はあると思う。よってIntegrity/インテグリティとは自らの主体性発揮の源泉と捉えている。